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(2016年6月)          


陰者の告白

by Imao Hirano


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 フランス文学者で平野レミの父親でもある平野威馬雄著「陰者の告白」の単行本が話の特集より出版されたのは、私がロサンゼルスへ引っ越す1976年のことです。当時は「癊者の告白」と、タイトルで違う漢字を使っており、表紙もビートルズの「ホワイト・アルバム」ならぬ真っ黒で無地という奇抜なものでした。それから40年、帰国してみると、タイトルの漢字や装丁こそ変わっていましたが、著書そのものは健在で、ちくま文庫から出ています。

 この内容というのが壮絶で、「・・・・・・しかし、ダメだった・・・・・・コカインは燐光をはなって、鬼火のように、ぼくの眼をするどく刺したのだ」と、コカイン、モルヒネ、クロラール等、15年にも及ぶ乱用の日々が描かれているのです。ある時は陶酔の海へ身を任せ、またある時は禁断症状の地獄めぐり、そしてついに生還します。赤裸々な麻薬耽溺の告白が、著者の卓越した筆力で読者の心へ沁みわたり、麻薬の持つ圧倒的な力の前にひざまずかされる一著です。

 麻薬関連の著書といえば、アメリカではそれまでもロバート・コールズ、ジョージフ・H・ブレンナー、ダーモット・ミーガー共著「麻薬と青春(1972年)」といった優れたノンフィクションが出ていたいっぽう、日本でここまでのレベルへ到達したのは本著が初めてでしょう。15年間の空白を人から聞かれ、どう答えたかで幕を開ける本著は、そもそも著者がいかにしてコカインと出会ったかという話や、そこへのめり込んでゆく過程を克明に描きながら、自らを監禁するため世田谷区の精神病院、松沢病院へ入院し、本著の3分の1は入院中のエピソードで占められています。

 紆余曲折を経て病院のクロラールとコカインを盗んで脱走した平野が、麻薬取締法プラス窃盗の罪で全国指吊手配となっているのも知らず逃亡生活を続けながら、山谷のドヤ街を泊まり歩くうち、見世物小屋の「ろくろ首の女」と出会い恋に陥るのです。それからしばらくは麻薬絡みのいろんな女との爛(ただ)れきった生活が続き、そして智子との運命的な出会い・・・・・・この出会いなくして平野の生還はなかったと思われます。彼女が命を張った最後の賭けは本著のクライマックスであり、感動と涙なくして読めません。

 ちなみに、麻薬といえば皆さんは非日常的な存在だと思われるかもしれませんが、コカイン、モルヒネ、クロラール、あるいは大麻ばかりが麻薬ではありません。メジャーな麻薬の中で、もっともポピュラーなのがアルコール、ニコチン、カフェインです。言い換えれば、本著が自分とは無縁の世界と一歩距離を置いて読まれる方がほとんどではないでしょうか? しかし、視点を変えると麻薬がテーマであっても、じつはある種のきっかけに過ぎません。やはり平野威馬雄という1人のフランス文学者の生き様が実際のテーマであり、本著を読んで心を打たれるのは、その人間ドラマなのです。

 最後に付け加えておくと、オリジナルの装丁を担当した和田誠は、本著のクライマックスで登場する智子と平野が再婚し、子供を3人もうけたうちの1人、平野レミの良人でもあります。また、1900年5月5日生まれの平野は、1986年11月11日、86歳で死没しました。


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