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1952年5月16日、アイルランドはナヴァン生まれのピアース・ブロスナンが俳優業を目指したきっかけは、貧しかった十代の時に初めてのカラー映画でショーン・コネリー演じる007シリーズ「ゴールドフィンガー(1964年)」を見たことでした。しかし、その道で彼が成功するのはまだまだ先の話で、イラストレイターとして生計を立てる時期がしばらくあった後、ようやく俳優としての本格的なデビューを飾ります。11歳で家出をしたブロスナンはロンドンへ渡り、14歳で芸能界(ショー・ビジネス)入りをしますが、当時は芸能界(ショー・ビジネス)といってもサーカスで「ファイアー・イーター(火食い術)」をやっていたにすぎません。その後、ヨーロッパとアメリカで下積み生活を送りながら、テネシー・ウィリアムズのイギリス初演作で注目を受け、'80年には「クリスタル殺人事件」で映画デビューを果たします。それからしばらく伸び悩み、アメリカの人気TVシリーズ「レミントン・スティール探偵所(1982〜87年)」の主演で、ようやく人気を博すのです。
ちょうどその頃、ロジャー・ムーアが降板した後の007役をティモシー・ダルトンと競いながら、若すぎたことと先の「レミントン・・・」の主演契約から下りられず、オーディションでダルトンへボンド役を譲った直後、彼がフレデリック・フォーサイスの小説を映画化した「第四の核(1987年)」で演じるのは、皮肉なことにボンドの宿敵KGBエージェントでした。ところが、「ハンサムなだけの役者」というレッテルだけは払拭できず、作品にも恵まれない時期が続きます。
'91年に妻で女優のカサンドラ・ハリスと死別したブロスナンは、その後「バーチャル・ウォーズ(1992年)」や「ミセス・ダウト(1993年)」などの主演作がありながら、TVスターから本格的な映画スターへと脱皮するのは、1995年の「ゴールデンアイ」を待たなくてはなりませんでした。この007シリーズの新作へ彼が起用されたのは、先のダルトン演じるボンドの興行成績が今一であり、またプロデューサーのブロッコリーも父親から娘にバトンタッチした結果です。
こうして新時代のジェームズ・ボンドとして(物価上昇率を計算に入れないと)コネリーの樹立したシリーズの興行収益記録を塗り替え、当初は3本契約だったのが結局は「トゥモロー・ネバー・ダイ(1997年)」、「ワールド・イズ・ノット・イナフ(1999年)」に続いて「ダイ・アナザー・デイ(2002年)」とシリーズ4作へ主演します。さすがに間もなく全米公開を控える次作「カジノ・ロワイヤル」の主演はダニエル・クレイグへ譲ったブロスナンですが、それら4作での成功は映画スターとして確固たる地盤を築く原動力となりました。
007シリーズの成功と平行して、バーバラ・ストレイザンド主演作「マンハッタン・ラプソディ(1996年)」やジャック・ニコルソン主演作「マーズ・アタック!(1996年)」での助演から夏のブロックバスター作「ダンテズ・ピーク(1997年)」での主演、その他「ネフュー(1998年)」や「マッチ(1999年)」といった独立プロ(インディー)作での主演など着々と実績を重ね、「ネフュー」や「マッチ」では製作総指揮も務めています。
また1999年は、かつてスティーブ・マックィーンとフェイ・ダナウェイ共演でヒットした「華麗なる賭け」のリメイク版「トーマス・クラウン・アフェアー」の主演が当たり、2001年にはピープル誌が「世界でもっともセクシーな男性」としてブロスナンを選びました。その年(2001年)の「テイラー・オブ・パナマ」に続き、「イブリン(2002年)」、「ロウズ・オブ・アトラクション(2004年)」、「ダイヤモンド・イン・パラダイス(2004年)」、「マタドール(2005年)」などもヒット、そして間もなく全米公開を控えた「セラフィム・フォール(2006年)」へ請うご期待! (2006年9月)
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