映画と主演女優


 前回の「主演男優」に続いて、今回は「主演女優」を取りあげてみたい。商業的な成功を収めた映画の主役を演じる男優が、主観的な好みはさておき魅力があることを否定できないのは、主役を演じる女優の場合も当てはまる。男優であれ女優であれ、主役が魅力のない映画では観客へアピールするはずがないから当然といえば当然の話だ。

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 「魅力のある俳優」とは言い換えれば「艶っぽい俳優」であるが、魅力とか艶っぽさの観点は人によって違う。たとえば、多くの女性ファンを魅了する男優でも「紳士(デボネア)」タイプのいっぽうで「女たらし(ウーマナイザー)」タイプがいる。また、ある女性ファンは紳士(デボネア)と感じて魅(ひ)かれる男優が、別の女性ファンは女たらし(ウーマナイザー)と感じて魅(ひ)かれているかもしれない。

 これが女優や女性のアイドル歌手なら「清純派」というわかったようでわからない基準の捉(とら)え方もある。では、何が清純派なのか?・・・・・・じっさい清純であろうとなかろうと、その女優のイメージだけで清純派と呼ぶのか、私生活まで含めた清純な女優を意味するのかでは大きな違いがあり、後者だと「清純派のポルノ女優」など存在しえない。そして、ポルノ女優というだけで不純なら「セクシー」なほど清純派失格である。

 いくら紳士(デボネア)と女たらし(ウーマナイザー)は意味合いが違っても、とりあえず女性を魅了する点、あるいはセクシーな点で共通性があるのと比べ、清純派の解釈は個々で落差が激しい。アメリカなどと比較して、特に日本ではこの傾向が目立つ。私生活でも清純な女優だと思って憧れる男性ファンを裏返せば、男優へ憧れる純粋な女性ファンの心理であり、その典型はジャッキー・チェンが結婚した時、失望のあまり自殺をした日本の女性ファンだろう。ただ、こういうタイプの熱狂的ファンは日本以外で珍しいのが現状なのだ。

 もちろん、どこの国でも熱狂的なファンはおり、かつてアメリカでもマーチン・スコセッシ監督の名作「タクシー・ドライバー(1975年)」を見てジョディー・フォスターのファンになったジョン・ヒンクレイという男が、フォスターを尾けまわしたあげく、彼女へ印象付けたいがため時のレーガン大統領暗殺を企てた。異常なまでのファンとはいえ、日本だと逆にこのタイプが珍しい。

 ともあれ、映画業界も含めた芸能界の仕組みから、ある程度以上成功した女優へ世間一般でいう清純な私生活は期待するほうが間違っている。もし「清純派のポルノ女優」は論外という発想なら、そもそも清純な女優など存在しない当たり前の現実を認識しておくべきだ。日本の場合、当たり前のようで当たり前でないからこそ、チェンの結婚で自殺をする女性ファンや、清純派と信じた女優の不純な現実を知って憤慨する男性ファンの登場と相成る。

 私自身、日本から作家としての仕事の代わりウェブマスターとしてホームページのデザインを頼まれ、その主が売っ子ながら私の知らなかった女優であるような場合、まずはどういう相手なのか当然ながら興味を持つ。売れている以上、送られてきた写真とか記事などの資料がそれなりの水準以上なのは当然のことだ。しかし、コンテンツの文面や使う写真を打ち合わせるうち、選択の基準が相手は私の認識する常識の枠外どころか価値観の違いで驚愕させられるケースさえ出てきた。

 要するに本来の意味でナイーブなのだ。「ナイーブ(naive)」を研究社の和英中辞典で引けば「unspoiled; naive (注英語のnaiveは今では「考え方の幼稚な」という悪い意味で用いられることが多い)」とある。ただ、もともと一般的な英語だと「悪い意味」でしか使われておらず、ここで言う今ではというのが日本だけは「いい意味」で使われてきたという前提だとしか解釈のしようがない。たとえば、同じ研究社の英和中辞典を引けば「いい意味」など1つもなく、「(特に若いために)世間知らずの; 単純[素朴]な; 純真[うぶ]な; だまされやすい・・・・・・」。以前も「映画と日常生活」で触れているので、これ以上「ナイーブ」の解説は控えるが、ナイーブな相手はナイーブな選択基準で、せっかく「いい写真」を嫌がり「最悪の写真」を使って欲しいと言う。

 つまり「最悪の写真」を「ナイーブな写真」と置き換えれば私と彼女の意見は一致しそうな気がする。ただし、ナイーブだから没だと考える私とナイーブだから使いたいと考える彼女とのギャップは埋まらない。もし、ナイーブと聞いて私の脳裏へ「日本の政治家」が浮かぶ瞬間、彼女の浮かべたイメージは「星の王子さま」だとすれば、コミニケーションが難しいのは当然だ。

 いっぽう私が「いい写真」というのは、ナイーブでない写真、魅力がある写真、艶っぽい写真、目を引かれる写真・・・・・・どう置き換えようと、自分自身の感性でいいと思うものはいい。もちろん、私のところに送ってきた以上、相手も同感のはずであり、彼女が使うのを嫌がる理由はそれが少し前の写真であったり、いい悪いとは無関係の理由なのだ。また、本人が第三者へは今の写真と変わらない少し前の写真を「若い頃の写真」とか「昔の写真」とかに拘ろうと職業柄しかたがなかろう。したがって、使って欲しいと言う写真さえ良ければ文句はないし、そこそこの写真でも、当人のホームページである以上、黙って妥協する。

 私が納得できないのは、写真ばかりでなく他のコンテンツを含めた選択でほとんど意見が合いながら、まれに対立する時は、必ずといっていいほど相手の選択が私の許容範囲外なのだ。10枚の写真を送ってきた中でこれだけは駄目だと思う1枚があるとすれば、なぜか彼女の希望はその1枚である。デザインを任された立場として、相手が最悪の写真を使わなくてはいけない理由を納得させてくれない限り、私が駄目だと判断したものは使えない。

 お互いが相手を説得し、納得し合って初めて次のステップへ進む。説得し合う段階で、お互いの相手に対する理解は深まる。結果、最悪の写真を選んだ相手のファンがほとんど女性であることもわかった。最初そう聞いた時は、せいぜい彼女が女性好みのタイプと解釈していたら、じっさいは私の理解を超えるレベルだったのだ。常識的な判断で、世の中、男と女しかいない以上、両者へアピールする魅力が芸能界ではタレントとして成功する最低条件だろう。どちらかに偏るとしても、売れっ子であれば「女性好みのタイプ」とか「男性好みのタイプ」とか、せいぜいタイプの違いである。

 なるほど男性の私が魅力を感じない写真を選び、少しでもセクシーな写真は自分のイメージを壊すと考える彼女は、ほとんどが女性ファンの売れっ子という異常な状況だからこそ、女性ファンのイメージを壊せば死活問題だと考えるのもわかった。残念なのは、女性ファンがせっかく「憧れの理想像」と慕うイメージは周囲のスタッフによって創られたものであり、そこへ自主性が伴わないから自分の魅力を自覚できない。売れっ子ではあっても私が名前を知らなかったのも納得できたし、自主性を持たないうちはしょせん女性ファンしか魅了できないままだろう。

 考えてみると彼女同様、日本で言う「清純派」とは日本で言う「ナイーブ」がピッタリ当てはまりそうだ。反面、かつて清純なイメージで売り出した吉永さゆりは、成功した時点で清純なイメージを保ちつつこのナイーブさがなかった。当初の純情可憐なイメージを途中でセクシーなイメージへ方向転換する浅丘ルリ子にしても、私好みの若尾文子の初々しいデビューにしても、このナイーブさとは縁がない。

 日本の映画界では当時「大部屋」という封建的な制度があり、今ほど社会的な地位を確立していなかった(かの小津安二郎は映画会社へ就職を決意する際、「なにも大学を出て映画監督にならなくても!」と両親を失望させたエピソードが残っている)ことと相まって、世間は女優へ非現実的な貞操観念を求めなかった。銀幕(スクリーン)に夢を求める映画ファンが、それを舞台裏まで引きずれば夢は破れる現実を(たとえ無意識の内にせよ)理解していた。いつしか時代が代わり、ナイーブでなかった日本のファン層はナイーブになり、その結果がいわゆる「清純派」の誕生である。

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 以前、プレミア誌のインタビューに応えたジェニファー・ロペスが、「私の人生は、まるで道化よ!」と自虐的な発言をしていたが、これは成功したスターが前向きの姿勢でいるからこそ言える台詞だろう。また、この一言で彼女は決してナイーブじゃないことがわかる     そもそもナイーブならハリウッドで成功するはずはないが!?     それ故、いわゆる清純な役柄からタフな役柄までこなせるわけだ。

 未だハリウッドのアイコン的存在であるマリリン・モンローも、逆境の中で決して幸福とはいえない短い人生を精一杯生きたからこそ、出演作ともどもハリウッド映画史上へそれだけの足跡を残し得た。ケネディー兄弟とのスキャンダルを含むそのドラマチックで華やかな生涯と比べ、ロサンゼルスという大都会の一画の墓地でほとんど訪れる人のいないままひっそりと眠る今の姿はあまりにも寂しい。しかし、ハリウッドのアイコン的存在である限り、それが女優として生涯を終えたモンローへどんな意味を持つ?

 不幸を知らず幸福は実感できない。したがって、幸せな人間像(キャラクター)を演じる上で不幸せな体験が演技の深みを増す。同じく、淫らな体験は清純な人間像(キャラクター)を演じる上での鍵(キー)となる。後のモナコ王妃というぐらい清く正しい貞操観念をイメージさせる女優時代のグレース・ケリーアルフレッド・ヒッチコックに言わせれば、「ああいうタイプほど、あっちのほうが好きなものですよ」なのだとか・・・・・・そう聞いてケリーへ失望するファンは、今後、映画を見る姿勢を考え直したほうがいい。

 今回のエッセイは、(本質的な部分で日本の政治家その他にも言いたいことなのだが表面上は)日本で将来ハリウッド進出の夢をお持ちの女優か女優を志すかた以外、あまり意味のない内容となってしまった。そこで、とりあえず三文文士の戯言が少しでも彼女たちへ役立つことを祈りつつ筆を置く。

横 井 康 和        


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