空中四万哩 (その2)


グランド・オープニング最後
を飾った“ソウルUソウル"

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 私がアメリカ側のプロデューサーとして準備を始めた中で、ほとんどの打ち合わせは電話とファックスを使ったが、イギリスのグループ“ソウルUソウル”だけは、ちょうどL・A(ロサンゼルス)で世界ツアーのリハーサル中であったため、直接会うことが出来た。日本はツアーの初っぱなということもあり、打ち合わせに力が入った反面、彼ら自体、まだまとまりはない。リハーサルが進むにつれ、いったん決めたはずのステージングは何度も変更されるなど、そのとばっちりが私のほうへ来たのである。

 他の出演者、そして小屋(ライブハウス)の建設そのものが遅れていた日本側スタッフとの、決してスムーズとは言いかねる約1ケ月半の準備期間が終わり、いよいよ日本へ発ったのは6月27日の水曜日だ。ロサンゼルス史上最高気温112度(摂氏44.5度)を記録した前日の余韻で、空港に向かうタクシーの窓からは、まるで1キロワット級のヘアー・ドライヤーを浴びているかの熱風が吹き込む。さすがL・Aのタクシー、それでもクーラーを入れる発想はない。

 時差の関係で成田へ着くと翌28日の午後だ。通関を終えて空港ロビーに出た私を、ステージ担当マネージャーが迎えてくれる。もっとも、私と同便のグレ−ス・ジョーンズを迎えるついでではあったが・・・・・・まあ、いくらオープニング・パーティーのゲストとして招待されようと、オープニングの準備はまだ整っておらず、仕事が残っている限り、ゲスト気分とはほど遠いのが現状である。したがって、赤坂のホテルをチェックインするや、さっそくタクシーで汐留の現場に向かう。

 グランド・オープニングを2日後に控え、ステージ作りは最後の追い込み状態で、翌日のリハーサルまでほとんど時間がない。翌日はなんとかリハーサルが始まったものの、いろんなところで無理はある。加えて出演者側と日本側のスタッフが顔を会わせた結果、新たな問題として浮かんでくるのはコミニケーションのギャップだ。一番大所帯の“ソウルUソウル”がリハーサルの中心であり、彼らとは過去1ケ月半つき合ってきた関係上、結局、私が調整役(パブリック・リレーション)を務める羽目となる。

 どのようなケースであれ、また自分の立場はどちら側であれ、アメリカと日本の間に立ち、文化的背景の違いから両者でコミニケーション・ギャップが生じた場合、両方から敵愾心を持たれることは珍しくない。リハーサルの途中が、やはりそうだった。これは前回のコラムでも触れたとおり、バンド側が何事につれ私を頼ってくればくるほど、いくら日本側の立場で対処しようが、「横井さんはアメリカ側」みたいなバイブレーションが日本人スタッフから伝わってくるのだ。

 それも仕事の一部と考え、ようやく30日の開場間際、リハーサルはひととおり終わって客入れが始まった。こうなれば、あとは仕事を忘れてゲスト役に専念すればいい。VIP席で桑名正博ミッキー吉野などの昔馴染みとショーを楽しむ。シーナ・イーストンの挨拶の後、まず登場したのが“オフラ・ハザ"、続いて“ボイコット"、リッチー・ヘブンス、グレース・ジョーンズで盛り上がってゆく。最後は“ソウルUソウル”でショーの幕を閉じた。

 こうして、L・Aを出発して3日後、心の余裕が出来ると、どうにか旅行気分を味わいつつ、東京の旅を楽む。間もなく帰る予定の私は、この時点で旅行の大半が終わったものと思っている。ドサクサの旅とはいえ、無事ショーを終えた満足感や、帰ってからのことで頭が一杯の私は、まさかこれが旅の序章であり、“空中四万哩”の旅は、まだ始まったばかりと知る由(よし)もない。

 ちなみに、このオープニング・パーティーへ海外から招待されたゲストは、私を含めて数十人近い。そのうちの何人かがホテルのロビーでたむろしているのを見ると、“チーチ・アンド・チャン”の片割れチャンや、TV番組“ナスティー・ボーイズ”で主演しているアジア系の役者などが入り混じり、じつに妙な集団なのだ。彼らの中では、リッチー・ヘブンスと話して彼の謙虚な態度に感銘を受けたことが印象的だった。 (続く)

横 井 康 和        


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