レスリーの東南アジア巡り (その2)


 かの「西インド会社」が栄えた古き良き時代の名残である墓地、それらの古びた墓を護るのはマービン・ブラウンという男だ。マラリアや高熱で亡くなった者、船が沈没して溺れ死んだ者など、当時はかなりの名声があったと思われる人々の眠る素晴らしい墓地である。中には伝説となった墓碑名があったり、長い歳月のうち墓荒らしの被害を被った時期も希ではないという。

 そして、また別の墓地を訪れ、私が出会うエドウィンという男はマービンの友人であった     それにしても、なんとオールド・ファッションな彼らの名前であることよ!     こうして始まった、私のカルカッタ旅行なのだが、このエドウィンというのは、父親の死後6ケ月で母親も亡くしている。彼が一族のしきたりどおり母親を埋葬した時の話は、土地の風習が違ういい例だ。
30代当時のレスリー(筆者)と食欲旺盛
なヨコチン(翻訳者)、ベニス海岸にて

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 エドウィンの一族のしきたりだと、ふつう家族の1人を葬った場合、次の埋葬まで5年間待たなくてはならないらしい。せめて1年経っていたなら方法もあったそうだ。しかし、半年というタイミングが悪かったため、エドウィンは母親を別の墓地へ埋葬せざるをえなかった。彼が案内してくれた別の墓地というのは、私が宿まろうと思っている「トリー・クラブ」のすぐ近くだったのである。

 マービンやエドウィン曰く、'40年代からの伝統なのか未だ人種差別をする「トリー・クラブ」は、彼らが有色人種なのに対して白人の私は問題ないだろうと言う。じっさい、行ってみると問題なくチェックインできた。2人の墓守と別れた後、私が想ったのはカルカッタのアングロ・インディアンや彼らが住む小規模なゲットー・・・・・・

 白人でもインド人でもない近代インドの申し子である彼らは、私の知る限り英語だけでヒンズー語を話さず、買物の時、片言のベンガル語を使うぐらいだ。彼らの多くがカルカッタの一般社会と隔離された閉鎖社会で、教会の慈善事業や社会福祉の世話になりながら生きている。彼らは、われわれが自分の人生を歩むごとく、彼らなりの生活を続けてゆく。

 さて、「トリー・クラブ」はイギリスのゴルフ・クラブ同様、'70年代に一大転期を余儀なくされた過去の遺物といえよう。天井のタイルは、たぶん石綿がビッシリ残っているという感じだ(訳注: 昔は断熱材として一般的だった石綿が、現在は人間の呼吸器系へ及ぼす弊害からいっさい使われなくなり、古い建物の場合、石綿排除がアメリカの不動産業界にとっても、まだまだ大きな問題点)。しかし、床は手入れが行き届いている。建物の古い部分は、とても、とても天井が高く、涼しくて快い。

 翌日も私は街中を見て回ったが、カルカッタの女性はあからさまで、威厳のあるダウ(帆船)が帆をはらませて進むごとく通りを行き交う。堂々とした彼女たちの態度に恥じらいというものは窺(うかが)えず、インドのバターを精製したジーや糖分がそのエネルギー源だそうだ。しかし、たんなる遺伝性のものかもしれない。また、ここは事故多発地帯でもある。気をつけなくては!

 大人と子供の入り混じった男たちのグループが早朝からクリケットに興じ、街中で目立つ広告はインドの調味料であるチャッツネ専用の付属品がついたハンド・ミキサーのものだ。バスやタクシーや電車など公共の乗り物はすべてプラスチック製の椅子であり、この暑さと湿気の多い気候だと熱くてべっとりした感触が不快感を誘う。探求心旺盛な私は、そんなカルカッタの文化を知りたくてインド政府観光局主催の「カルカッタ・ツアー」へ参加することにした。

 3月14日当日、ツアー・バスを見た時点でそれがどのようなツアーか私は予想がつく。外人のツアー参加者は私1人だけである。そして、他の参加者も全員が文化に興味を持つという点は共通しており、裏返せば外人としての私が彼らの興味範疇へ含まれるわけだ。ただでさえエアコンはなく蒸し暑いバスの中で、みんなが私のそばに座ろうとするものだから、ますます不快指数は増す。

 鏡を使ったジェイン寺が素晴らしく、ラジャスザンの大理石を使ったものとまたひと味違う。しかし、それ以外はまずまずの寺をいろいろと見て回る途中、ツアー・バスが地元のテーマパークで1時間半の休憩・・・・・・まさに悪夢のような場所だ! こればかりは、いくら外国の文化へ興味があっても、ご免こうむる。そこで、私は通りの向かい側に渡り、小綺麗な店でチャイを2杯飲む。ミネラル・ウォーターが少し濁っているような気はするが、店の中を見た限り、ちゃんと沸騰せさているらしい。

 すぐ近くでは、子供たちがアカシアの実を取っており、1人はマチェーテ(なた)のようなナイフで、素手だと届かない高さの枝と格闘している。彼らがアカシアの実をどのように料理するのか私は知らないが、ラジャスザンで食べたアカシアの実はとても美味しかった。ともあれ、そんな子供たちを見ながらそよ風の中でしばらく佇(たたず)む。

 バスが出発する時間となり、再びツアーへ戻った私も、結局、あと3時間を残し博物館で彼らと別れを告げる。カルカッタの歴史には、いろいろと興味深いものがあり、その1つは踊りだ。バス・ツアーを途中で抜けてから、しばらく時間をつぶし、私が出かけたのは踊りのリサイタルであった。しかし、着いてみると、ここ半年ばかりリサイタルが開かれていないとわかる。しかたなく、「トリー・クラブ」の自室でナショナル・ジオグラフィック・チャンネルを点け、代わりに見たのはマンダワで行われたラジプットの結婚式・・・・・・

 こうしてカルカッタ最後の夜を過ごした翌朝、私は次の目的地バンコックへ向かう。 (続く)

レスリー・ロウ        


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