映画と思い出


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「タイムマシン」
 3ケ月前に姉の一回忌を迎え、1ケ月ばかり帰国した時のことだ。寺の中で法事が進行する中、脳裏では生前の姉の思い出が走馬灯のように駆け巡り、ふと考えてみると、それらのイメージはちょうど映画の回想シーンそのものなのである。もちろん、映画のテクニックの中でも昔からある回想シーンを表現する手法は様々であり、たとえば・・・・・・

 2002年の「お先に失礼!」でご紹介した「タイムマシン(2002年)」、物語(ストーリー)は1890年代のニューヨークで大学教授のアレクサンダー(ガイ・ピアース)が、ある日、婚約者のエマ(シエンナ・ギロリー)を暴漢に殺されてしまう。現実をどうしても受け入れられないアレクサンダーは過去に遡(さかのぼ)ってエマを救い出したいとの一念で、ついにタイムマシンを発明してしまうのだった。しかし、エマの死んだ日へ戻ろうがエマの運命そのものはどうしても変えようがないことを知り、諦めきれないアレクサンダーはその理由を解き明かすため、逆に未来へ向けて時間移動し、2030年の世界に降り立つが・・・・・・

 映画そのものの出来栄えはともかくとして、時空を超えて過去と未来を行き来する物語(ストーリー)の性格上、いわゆる回想シーンがこの映画のかなりの部分を占めている。それらの回想シーンは、ちょうど法事で私の脳裏を駆け巡った姉の思い出と同じパターンだ。このパターンでもっと極端なのが、映画のクライマックスを導入部へもってゆき、その少し前に遡(さかのぼ)って本編が始まるパターン、つまり映画の大半は回想シーンから成っている。
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「マイケル・クレイトン」

 今月号の「お先に失礼!」でご紹介している「マイケル・クレイトン(2007年)」などが、その好例といえよう。大手の弁護士事務所(ファーム)で影のフィクサーとして多くの難事件を解決してきたマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)は、職業柄、私生活自体が単純ではない。離婚した妻との間の息子をベンツで学校へ送り迎えするいっぽう、怪しげなカジノで借りを作ったかと思えば、緊急電話で新たな顧客と会いにゆく。その直後、夜明けの郊外で馬を見ようと降りた彼の背後で車が爆発・・・・・・

 爆発の4日前へ遡(さかのぼ)って始まる本編の内容はさておき、後半でようやく導入部が本編と重なったところで映画はクライマックスにさしかかる     いわば、坊主の唱えるお経が佳境へ入り、私自身、過去の思い出に浸っている場合じゃなくなってきた。そこで、雑念を振り払って焼香だ     このパターンを更に推し進めると、回想シーンのみから構成された映画だって成り立つ。
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「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

 姉の思い出のみを切り離すと、それはそれで完結する。たとえば、日本で「ALWAYS 三丁目の夕日(2005年)」がヒットし、間もなく(11月3日)公開されるその続編「ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007年)」もヒットは間違いない。これらの2作が受ける大きな理由は、日本人の思い出が映画の根底にあることであり、それ故、同じ歴史を共有しない海外の観客へは同じレベルの説得力を持てないわけだ。

 思い出が引き金となって、我々は「懐かしさ」を感じる。したがって、映画の基本(ベース)となる思い出を共有しない観客が見た場合、そこに懐かしさは感じない。ただし、映画が素晴らしいのは、作品としての出来が良ければ基本(ベース)となる思い出そのものを観客へ疑似体験させ、その結果、懐かしい感じはどこの国の観客であろうが普遍的なものとなる。

 法事で脳裏を駆け巡った姉の個人的な思い出は、他人(ひと)に話したところで「それがどうした」で終わってしまう。しかし、話す相手が親戚や姉の知人であれば事情は違ってくる。映画だと、前者が独りよがりの駄作で後者は特定の観客へのみ説得力を持つ作品のようなものだ。もし個人的な思い出を知らない人に話すとしたら、アプローチからして違うのが当然ながら、あんがい無神経な映画はどこの国でも少なくない。
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「28週間後」

 回想シーンの表現が映画の完成度へどう係わるかはこれぐらいにして、続いてその具体的な手法へ触れてみよう。上記の「タイムマシン」や「マイケル・クレイトン」で場面が過去や未来に変わる時は、ただそれが言葉で表示されるだけだ。後者なら爆発シーンの後、「それから4日前」という表示だけで観客は状況の変化を理解する。「28日後(2003年)」やその続編の「28週間後(2007年)」のような刻々と状況が変化する映画でも、この手法は皆さんお馴染みであろう。

 そういった言葉の表示ともども、無声映画の時代からある原始的な手法の1つが画面をぼかす・・・・・・ぼかしかたのバリエーションはいろいろあるが、画面へ細工することで時間の変化を表現する点は変わらない。ただ、こちらの手法が下手をするとマイナーな印象を拭えないのは確かだ。法事で脳裏を駆け巡った姉の思い出とて、場面(シーン)が変わるところで決して画面はぼけたりしなかったことを、ここで断言しておく。

 もっとも、いくら断言しようが思い出すパターン自体へ映画の影響は拭えない。そこでふと思うのが、世間一般の映画ファンはどうなんだろう?・・・・・・やはり、私のように日常的なある種の思考パターンまでが映画の影響を受けているのだろうか。あるいは、私の考えが逆で、もともと映画の回想シーンは我々の思考パターンを反映しているだけなのだろうか?・・・・・・今度こそ、まさに「それがどうした」と言われそうだ!

横 井 康 和      


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