空中四万哩 (その4)


 7月17日、再び成田空港へ降り立った私は、まっすぐキャピトル東急ホテルに向かう。あたふたとチェックインを済ませライブハウスへ行くと、スタッフたちが開演前の準備に追われている。ほんの数日振りとはいえ、温かく迎えてくれる彼らの笑顔が懐かしい。そして、開演後は私をこのプロジェクトへ誘った張本人であるT氏も現われ、身内で盛り上がってゆく。

 翌朝、睡眠不足の寝ぼけ眼(まなこ)をこすりながら八重洲口にあるライブハウスの事務所へ顔を出すと、外務省から届いているはずであったジョージ・クリントン一行のビザを取るために必要な書類が来ていない。そこで、まず必要経費(ペティーキャッシュ)の手続きやホテルのチェックアウト等を済ませた後、直接移民局へ行って書類を待つ。

 書類が揃い、成田空港に着いたのが午後6時過ぎだ。スイス空港のVIPラウンジでしばらく待たされ、ほぼ定刻通り成田を発ったSR165便は、アンカレッジ経由で翌朝チューリッヒ、クローテン空港へ着き、早朝のターミナルで約2時間、ミュンヘンまでの乗り継ぎ便を待つ。ミュンヘンでクリントン一行が泊まるホテルはそこ1軒しかないことを空港ターミナルで確かめた上、タクシーを拾う。

 ホテルへ直行したのが10時、ツアー・バスは見当たらない。一足先に待ち構えるパターンで幸先がいいと思いきや、フロントデスクで問い合わせた結果、ジョージ・クリントンの名はおろか30人以上の団体が予約した形跡すらないのだ。突如として目の前は真っ暗となり、フロント・ロビーの公衆電話でハンブルグのプロモーターへ連絡するとノーアンサー。番号係からあと3つの番号を貰ったが、それも出ないので、とりあえず東京やニューヨークに問い合わせるため部屋を取る。

 あてがわれた部屋から何軒か国際電話を入れ、幸い出演者のビザを扱う東京の代理店でクリントン一行の変更先は判明し、そちらへ電話を入れると間違いなく予約が入っていた。しかし、慌ててそのホテルに行ったものの、いくら待とうとツアー・バスは来そうな気配がない。本来は私と前後してチェックインするクリントン一行全員からパスポートと用意した書類へ署名を貰い、ミュンヘンの日本領事館に行くだけの話だ。そこでビザが下りなければ問題という筋書(シナリオ)は、まだ始まってもいなくてこの様なのだ。

 ともかく、ニューヨークにあるクリントンのプロダクションへ国際電話を入れ、その担当者から居場所がわかったら教えてくれと言われる始末!・・・・・・いかにドサクサか、ご想像いただけるであろう。そんなわけで、正午を回り、ますます不安が募りながら、ひたすら待っていると、午後1時を回り、ようやくバスは姿を現わす。そこで、事情を把握しているはずのマネージャーをつかまえ、全員のパスポートを集め、渡した書類へ彼らの署名をもらおうとしたら、肝心のクリントン他3名がいない。

 マネージャーは「すぐ来る、すぐ来る」と言いつつ約2時間、やっと着いたクリントンが遅れた理由は、書類もないくせ日本領事館に行ってとか!!・・・・・・呆れる間もなく、ようやく全員のパスポートと署名が揃い、待たせておいたタクシーで日本領事館に向かう。窓の外を流れる景色は間違いなくミュンヘンだが、私の心は異次元の世界を漂っている。

 脇目もふらず飛び込んだ日本領事館の受付でパスポートや書類を出したものの、すました受付嬢の反応が悪い予感を誘う。案の定、しばらく待って現われた領事は、「そもそも、ぎりぎりになって・・・・・・」で始まり、「ま、ウィーンへ行って、がんばってみるんですな!」と、冷たい一言で終わり。説教されるのも仕事のうち、ひたすら低姿勢で頼み込むが見込みなしだ。

ウィーン国立美術館
画像による目次はここをクリックして下さい
 ひとまずホテルに戻った私は、フロントで受け取ったハンブルグのプロモーターからのメッセージをゴミ箱へ投げ捨て、日本にファックスを書いた後、作戦を練り直す。そこへ、電話のベルが鳴り、受話器を取ると相手は私のファックスを見た日本のスタッフである。ミュンヘンが駄目と知って、明日はツアーバスの代わり朝一番の飛行機でウィーンに飛んでくれと言う。彼が時間を心配するのは当然だが、それは根本的な問題じゃない。だが、何も反論せず受話器を置いて、なおも考える。

 さしあたって問題が2つある。1つは20人以上を引き連れ移動中、コントロールが効かず、もう1つはウィーンの領事館が頭数だけで拒絶反応を示す可能性だ。さあ、どうするか?・・・・・・6時にホテルを出てコンサート会場へ向かう頃、アイデアは固まった。移動中、監視の目が行き届くよう4〜5人に絞って正式なビザを取り、残りは観光ビザで入らせる。「観光ビザ」組のメンバー用の、もっともらしい筋書(シナリオ)を考えつつ、ミュンヘンの街を横切り、会場へ着くと様子が違う。

 日本でもらったインフォメーションは間違いなくここだが、建物は小さすぎる上、開場を待つ人の姿も見えない。そこで、タクシーを待たせたまま中を覗くと、数人の若者がステージの準備中だ。その1人へ問いただした結果、クリントンの会場はここと同系列ながら街の反対側、つまり私のホテルの目と鼻の先だとわかった。ここまでくれば、もう怯(ひる)まない。目指す会場で到着前のメンバーを待ちながら、楽屋に用意されたビールとピッツァで、ようやくリラックス、いざショーが始まれば'60年代アメリカのリバイバル・ブールで盛り上がるドイツ人の観客と混ざって「サイケデリックの世界」を堪能する。そこへは自分自身でツアーをやっていた'70年前後の日本がオーバーラップし、やたら懐かしい。

 ただ、凄じい熱気の中で延々と続くショーは深夜を過ぎても終わりそうな気配はなく、途中でマネージャーを外へ連れ出して私の筋書(シナリオ)を話した結果、翌朝7時、クリントンと彼個人のマネージャー、および主要メンバーであるギターリスト3人と待ち合わせ、私を含めた6人が飛行機でウィーンを目指すことになった。そして翌日、たまたま訪れる「ウィーン国立美術館」は、この空路4万哩(マイル)の旅が終わって、もっとも印象深い思い出を残す。次回は、そのあたりの経緯(いきさつ)を述べよう。 (続く)

横 井 康 和        


Copyright (C) 1998 by Yasukazu Yokoi. All Rights Reserved.

空中四万哩(その3) 目次に戻ります 空中四万哩(その5)