空中四万哩 (その5)


 早朝の飛行機でウィーンへ着き、通関や両替を済まして荷物を待つ間、ジョージ・クリントン個人のマネージャーが機内に荷物を忘れたと言いだす。そもそも、マネージャーのやるべき仕事をカバーしているところへ、当のマネージャーから邪魔をされるのは疲れる。彼の場合、観光ビザ組の1人なので、とりあえず残る4人のパスポートを集め、クリントンとギターリストの1人を連れて先に領事館へ向かう。

 ウィーンの日本領事館で受付に現われたのが意外と日本女性ではなく、またミュンヘンのような悪い予感もない。内心、「うん、いけそうだぞ!」と、ある種の確信を覚える。そして、パスポートや必要書類を渡すと、「じゃあ4時前に来て下さい。それより遅くなると閉まりますからね」気負っていたわりに、あっさり終わるが、内心の喜びたるや絶大だ。

 しばらくしてマネージャー達も到着し、近くで昼食を取ってから現地のプロモーターが手配してくれたホテルへチェックイン、時間は間もなく午後1時へ差しかかろうとしている。東京に連絡を入れて一段落つくと、あとは待つだけだ。ここ何週間か睡眠不足が続いているので、横になるとベッドの感触はやたら気持ちいいが、目は冴えたまま眠れそうもない。

 結局4時前まで待ちきれず、再び領事館のドアをくぐったのが3時数分前、ビザのスタンプを押したパスポート4通と関連書類を受け取った私は、ほころびそうな顔をグッと引き締め、領事館を出る。飛び上がりたい気分だ。ホテルへ戻り、改めて国際電話を入れると、東京のスタッフの嬉しそうな雰囲気が受話器越しに伝わってくる。

 パスポートを返すつもりで他の部屋をそっと窺(うかが)えば、みんな眠っているようだ。無理もない。プロモーターは7時頃迎えをよこすらしく、それまで3時間近くある。少しでも疲れを取り戻そうと、およそ半時間、悪戦苦闘の末、寝るのを諦め、散歩がてらウィーン国立美術館を訪れることにした。美術館へ着き、その重厚な建物を見上げたのが5時だ。さっそくチケットを買う。

 時間の余裕はなく館内を駆け足で見て回る感じながら、久しく心の余裕がなかった反動なのか、そのコレクションから受けるインパクトは強い。ヴァン・ゴーエンやゲインズバーグ、ブリューゲルやレンブラントなどの絵に押しつぶされそうになりながら、先を急ぐ。あんがい馴染みの絵が多く、中でもアーチボルトの“火”は意外だった。15〜17世紀の絵を集めてあるだけ宗教画が多く、そこには赤裸々な人間の葛藤が描かれている。それらの人間模様やキャンバスの表面へ滲み出た作者の情熱が、妙に心をくすぐるのだ。

 何度かルーブルを訪れた時でさえ、これほど強烈なインパクトは受けなかった。絵を見ながら、わけもなく涙が溢れそうになるのは、もちろんコレクションそのものより見る側の心境である。執筆に専念し、ほとんど世間とのつき合いを忘れていた私が、再びプロダクションの仕事へ係わったばかりか、その内容は常識を超えるレベルといえよう。

 また、この「空中四万哩(マイル)」の旅が始まってから、じつは1人の女性との別れがあり、もう1人の女性との出会いがあった。それを実感する余裕もなくヨーロッパへ飛び、ほぼ目的を達成した私の心境は複雑だ。ウィーン美術館の快い館内で、抑えていた感情を吐き出しながら、「いったい、こんなところで自分は何をしているんだ?」という疑問が脳裏に浮かぶ。

湖畔の長閑な景色
が流れる列車の窓

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 こうして束の間の“心の旅”を終えるや、あとは再び“現実の旅”が待っている。その夜、ウィーンのコンサートを終えたクリントン一行と、ツアー・バスでヨーロッパ最後の公演地スイスを目指す。ともかく、私の請け負った仕事は「観光ビザ」組を含めた全員が日本に入国できるまで終わったとはいえない。残る2日間、ツアーへ同行するのも仕事のうちだ。

 スイス公演というのが、どういうわけだか、かの“モントルー・ジャズ・フェステバル”で「とり」を務めるらしい。'60年代のアメリカを彷彿とさせるサイケデリック・ロックとジャズのイメージは結びつかないが、そんなことはどうでもよく、「観光ビザ」組のメンバーが私の考えたシナリオを頭に叩き込むよう何度も繰り返す。

 もっとも、主体は音楽であり、コンサートが始まる頃は、部屋へ戻って東京やニューヨークとの連絡に専念し、一段落ついてからは会場へ向かう。彼らが日本に着くのを見届けるまで、もはややることはない。着くと“アンディー・サマーズ・グループ”の出番で、間もなくスティングがゲスト出演するところだ。それまではフュージョン・ジャズっぽかった“サマーズ・グループ”が、突如“ポリス”のナンバーを演(や)り始め、私の“モントルー・ジャズ・フェステバル”観は、ますます覆される。

 この後、ヨーロッパでの仕事が終わったはずの私は、せっかくの演奏を楽しむどころか翌朝ホテルを発つまで散々な目に遭う。まず、明け方クリントン達の演奏が予定通り終わらず、終わった頃はどうあがこうが空港へ着くのは日本行きの飛行機が出た2時間後、次の便は翌日で、代わりの便もいったんロンドンに戻って乗り継ぐしかない。

 早朝のホテルで大騒ぎとなったことは言うまでもない。そして、飛行機便が決まるまで、途方に暮れたメンバー全員の相談相手は、なんと私なのだ。彼らのような扱いにくい連中から信頼を獲たからと、ちっとも嬉しくない上、それが片づいてホッとしたところへ、今度はニューヨークのエージェントまでが国際電話を入れてくる。私をクリントン達のロード・マネージャーと勘違いされては困るのだ。

 そんなわけで、ようやく彼らがロンドンへ向かったのを見届け、私だけは予定通りの直行便で東京に先乗りすべく、チューリッヒへと向かう。途中、列車の窓からレマン湖の長閑な風景を眺めながら、再び心が黄昏(たそがれ)てゆく。 (続く)

横 井 康 和        


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